ハーフタイム

外はずいぶんと涼しくなって、気づいたらニュースはハロウィンの渋谷のことで騒がしくなっていて、わたしはまだスイカも食べていないし手持ちの花火もしていないんだから勝手に終わろうとしてんじゃないよ、夏。と少し苛立ちながらも、なにか特別なことのように語られたこの季節が終わったことにほっとしている。

 

わたしの生活は相変わらず幸福に満ちていて、ときどき恋人とケンカをして絶望的な気持ちになるけれど、それも1日、引きずって2日で終わる。2人がちゃんと寝られるようにケンカはその日のうちに終わらせる、というのをはじめに決めておいてよかった。

 

 

わたしの幸福は生まれた時から決まっていたような気がする。パワフルでチャーミングな母と穏やかでキュートな父の間に生まれ、4つ違いの姉にかわいいかわいいと言われて育った。両祖父母が80歳を過ぎても病気1つせず、健康でいてくれているので月に一度は顔を見に行ってはみんなでごはんを食べる。

わたしがたとえば突然仕事を辞めて無職になったとしても、みんなはきっと「休みができたなら旅行に連れてってよ」と笑って声を掛けてくれるし、それだからいつでも仕事を辞められるという気持ちで安心して働いていられる。

 

 

黄色い目の魚に出てくるハーフタイムのような店がほしい。

昼間は高校生がコーラを飲みながら試験勉強をして、夜は仕事帰りの大人がやってきてビールとウイスキーを飲む。時々若い女の子がジンライムを頼む。きっと思っていた味とは違う、喉を熱くさせるジン。わたしはそこでいつだって誰かを待っていたい。わたしがそこにいることで救われたと言われてみたい。言葉にするとチープだけれど、わたしは本当にそういう場所になりたいとずっと思い続けている。

 

高校生の頃から同じようなことを言っているものだから、今すぐにお店を始めたらいいのにと言われるたびに「こんなペーペーに人生の話とかされたくないでしょう」と言い返し、みんなと一緒に受験勉強をして大学に行き、人生経験を積むためにと入社した企業で時々不満をこぼしながら悪くないが良くもないという毎日を過ごしている。

 

仕事帰りに友人とビールを飲んでいると、「どう生きたって私たちには絶望がない」と言われた。どんな人生経験を積んだとしても、ほんとうにつらい人の気持ちには寄り添えないし、そんな風に寄り添ってほしい人はきっとわたしの元にはこない。ふつうに楽しい人生で、どこでも生きていけそうなわたしだから、生きるためではなく余暇のための店を構えよう。わがままで自由な店にしよう。

 

絶望のない自分を肯定したら、目の前がパッとひらけた気がした。きっと今夜、1人でジンライムを飲みに行く。